今回のイラストは、昭和の初めに生まれた異色のガソリンカーキハ二5000です。
製造数がわずか12両とのことで姿を消したのも昔のことですから、私も当然見たことも写真を撮ったこともありません。
ところがちょっと変わった気動車が好きな私にすれば、キハニ5000は何故か気になる車両です。
HOの鉄道模型界ではかつて「つぼみ堂」や「フクシマ」から発売されていたこともありましたから、私にはそのイメージが残っているからかも知れません。
残念ながら、キハニ5000は持っていませんが。
そのキハニは車体長10mのリベット構造半鋼製車体のかっちりとした車両だったみたいですが、エンジン出力が小さくて走行性能は良くなかったとのこと。
それでも、播但線姫路~寺前、姫新線姫路~播磨新宮間で運用されていたとのことで、私には妙な親しみがあります。
今は北海道の苗穂工場に保存されているようで、機会があれば見学してみたいですが、ちょっと遠いですね。
]]>早くももう3月。 年明けから、あっという間の2か月経過です。
月遅れのイラストは正月早々に描き上げた、大正生まれの名旅客機C51です。
私はこのC51が現役を引退した直後に鉄道写真を始めたことで、残念ながらこの名機の写真は1枚も撮っていません。
C51は私が幼少の頃、山陰本線でよく見かけた機関車で、乗っている列車も牽引してもらったことは覚えているのですが。
さてイラストのC51ですが、集煙装置に重油併燃装置付き、よく見るとテンダーも増炭改造で、かなり重装備の出で立ちです。
115号機は山陰本線で活躍した豊岡機関区のカマですが、フロントデッキ改造と後藤工場標準整備車マーク付き大鉄型デフというスタイルは、あまたいたC51の中にあっても異色の存在だったと思います。
]]>イラストのアップは月イチのペースでしていたのですが、この度のロク二のイラストは “撮り人知らず” の写真をネタにもらったので、その撮影者を探すのにちょっと手間取り遅くなってしまいました。
ところが蓋をあけてみれば、何のことはない、私が懇意にさせてもらっているお方の写真でした。
イラストネタに拝借の許可を快諾頂いて、やっとイラストを載せることが出来ました。
さて、そのイラストはおそらく昭和42~43年頃の、とある朝、呉線の上り通勤通学列車を牽いて海沿いのルートをばく進するC62 5号機の雄姿です。
場所は須波~安芸幸崎で、この区間は昔、波打ち際の防波堤すぐ横を線路がはしるところで、呉線では有名な撮影地でした。
瀬戸内の海は、大小の船の往来が盛んなことで、列車と船を一緒に撮影することも可能な区間でした。
ロク二5号機は、S君と私が広島運転所から駅ホームまでを添乗させてもらったのですが、何とも大きな機関車やなー!と感激したことを思い出します。
そりゃー、シゴハチなんぞとは貫禄が違いますわな―!
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昨年の4月に購入したRT55については、とりあえずの、一般公道を走れるまでに整備、修理をしてもらったところまでは既にお伝えしました。
さてその後は10月の車検受けに向けての下準備を、色々とシミズさんとこでお世話になりました。
検受けに必要な整備と共に、ショックの交換、メーターパネル、スピードメーターと他のメーター電気配線の調整、雨水対策のシーリングなどなど。
目に見えない部分でリファインしなければならない不具合もあって、シミズさんには結構手間を取らせました。 が、特に電気系統のリファインは整備してもらって安心感が大きいですね。
この年末年始は、新たに生まれ変わったようなRT55に乗るのが楽しみでしたが、2日で100Km程の試走をしました。
9Rツインカムエンジンとソレックスとの共鳴と共振?は、決して速くはないですけど、何とも言えぬ旧車のえー感じ。。。
重ステと重クラッチも慣れれば。。。慣れても重労働ですが昔取った杵柄。
昭和40年代前半の風味は格別ですな。
]]>令和5年 2023年もあっという間に過ぎ去り、新たな年、令和6年2024年が明けました。
皆様、新年あけましておめでとうございます。
弊ブログも、最近では新しいイラストが描きあがったときに更新するくらいしか動きがありませんでしたけど、本年は精々動きのあるものにしたいと思っています。
昨日大晦日は、夜遅くまでイラストを描いていたせいで、朝、起こされると目覚まし時計の針は8時を回っていました。
アレレ、我が家のベランダから初日の出の写真は撮れませんでしたな! 新年は初めから出遅れてしまいました。。。
ともあれ、今年も何卒よろしくお願い申し上げます。
イラストNO.120は昭和41年夏、高山本線の下り列車を牽いて、鵜沼駅に進入して来たシゴハチ108号機です。
実はこのイラストの元になったのは、先月京都で開催された東西蒸機愛好者の集いに参加されていたAさん撮影の写真です。
ごく普通の日常の駅風景なのですが、何とも言えない風情があって、まさに古き良き時代の鉄道写真のワンショットですね。
高山本線の旅客列車無煙化は、確か昭和44年春。
当時、既に多くの旅客列車はDC化されていましたが、区間列車を含めて一日に9本の蒸機牽引列車が残っていたようです。
この列車は、お陽様の当たり具合から鵜沼10時過ぎの高山行831レか、13時の同じく高山行833レかと思われますが、Aさんに訊いてみましょう。
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今年ももう年末。泣いても笑っても、あと余すところ4日となってまいりました。
毎年恒例の国鉄型電関のカレンダーが斉宮君から送られて来ました。今年は5部です。
我が家には毎年2部掛けていますが、あとは当地の知人のテツ仲間のところに行きます。
ここ数年気になっているのですが、国鉄型?というよりも、国鉄カラ―を纏ったELは、いつまで目にすることが出来るのでしょうか?
願わくば、これからも斉宮君の撮影対象がずっと健在ならいいのですが。。。
今年は残念ながら、奇跡の国鉄型と呼ばれた、あの66ニーナも無くなりましたもんね。
ご当地コンテナも桃太郎ばっか。。。
]]>今回のイラストは、昭和43年の秋、岩手県は山田線の客レを牽引して大槌川を渡るシゴハチです。
イラストの元写真は、佐竹保雄さんの奥さん紀美子さん撮影ですが、山田線のフォトコンで三陸鉄道社長賞に輝いた名作です。
大槌を出発した列車は、吉里吉里に向けてダッシュします。郡山工場式の集煙装置、テンダーには1500リットルの大きな重油タンクを載せた宮古区所属シゴハチのシルエットが美しく浮かび上がります。
遠望のシルエットからでは、はてな?このシゴハチは何号機だろうか?集煙装置、テンダー上の重油タンクから推測するのですが、なんせ、宮古区にはシゴハチが16両も配置されていましたから残念ながら。 さて、紀美子さんは覚えておられるでしょうか。。。
2011年に発生した東日本大震災による巨大津波は大槌川流域にも甚大な被害をもたらしました。後年新設された水門は山田線橋梁のすぐ東、河口側に設置され和船の行き交うのどかな入り江風景は見られなくなりました。
]]>イラストNO.118は仕上がりが大幅に遅れて、本来なら10月初旬のはずが月末になってしまいました。
このイラストの元にしたのが昭和30年代半ばの、C12167号機の写真であったのでキハ06にアレンジするのに手間取った次第です。
北条線にキハ06が走っていたのは昭和42年頃までで、当時はキハ20などと共用されていたようですが、いつの間にか無くなってしまいましたね。
運用は通常単行ですが、多客時間帯は2連運行もあったようです。
また、この時代は貨車を従えての客貨混合列車がありましたので、古き良き時代ですね。
国鉄北条線。今では北条鉄道になって、キハ40が五能線カラーで駆け抜けています。
]]>C59 129号機に牽引された急行列車が、客車に纏わりつく煙と共に船坂トンネルを飛び出して来ました。
山陽本線の岡山電化の工事が始まる直前の昭和34年の鉄道風景は、コンクリー電柱や架線などは無く、線路周りは綺麗さっぱり、広々としたものでした。
兵庫~岡山の県境に立ちはだかる船坂峠は、特に重量貨物列車にとっては、最強の力持ちであったデゴニとても難所でしたが、
急客機C59においても長編成の優等列車では胸突き八丁でした。
イラストの129号機は前部端梁に白帯の縁取り、煙室扉ヒンジに白い色差しの、広島機関区所属特急「かもめ」指定機であったと思うのですが、沖田祐作氏の機関車表では熊本機関区所属時代の履歴しか記載されておらず、また何某かC59関連の記録があれば探ってみたいと思います。
]]>今年の1月に、かねてより念願であったBMW2002をインターネットオークションで落札しました。
今ではかなり貴重な、BMW2002 1970年代前半のいわゆる初期型丸テールで、しかも右ハンドル車でした。
落札価格は、そこそこ手をかけても十分な金額、だったはずでしたが。。。
陸送でやってきた02、一目で、こりゃーオレの手にはおえんぞなー、という相当ヤレた車でした。
私の、ざくっとした感覚ではナンバーを取って普通に走らせるのに150~200万くらいはかかりそうな。。。
ああー、部品取りでも持っていればなー。。。
オークションなどで車を落札するのは現車確認が当たり前ですがな。 いくら車のある場所が遠方だとしても。
それを怠った私が悪かったのです。
しかし、すぐさま出品者に、車の説明書きと実車の程度の違いが大きすぎて、ご法度を承知の上で車の返却と、相応額の返金を要求しました。
紆余曲折、艱難辛苦、 幾度かの出品者とのやり取りの末、この度半年ぶりに関東まで帰って行くことになりました。
思えば昭和59年頃、姫路の、とある自動車屋さんから02の丸テールを譲ってもらったことを懐かしく思い出しました。
タダでいい、と言われたので、ほんの菓子折ひと箱で御礼をしたという、昔の話です。
諸事情により、その車は公道を走ることなく保管することになり、復活することはありませんでした。
あれからもう40年か!
そしてこの度の02も復活せず。。。02には縁がありませんわ。
]]>蒸機時代には、D51の三重連が走るということで、ここ布原は有名な撮影地でしたが、信号所を出発した列車の力行が見られる場所として大人気のスポットでした。
一方DD54は新製以来、故障が頻発して工場に出たり入ったりの不評はありましたが、山陰本線、福知山線、播但線、そして短期間ながら伯備線でも使用され、陰陽連絡道の輸送に一役買いました。
このDD54、調子のよい時には “ビューン!ガツン!” DD54ダッシュとでも言うのでしょうか、非力なDF50には無い、力強い出発シーンが見られ頼もしいものでした。
伯備線で使用されていたDD54は、山陰本線で20系寝台特急「出雲」の牽引などにもあたり、それなりの活躍の場でもありましたが、DD51の進出に伴い静かに姿を消しました。
イラストは蒸機時代の末期昭和46年、35系客レを牽引して布原の第23西川橋梁を渡る37号機の雄姿です。
]]>RT55に乗り出してから3週間。
梅雨の晴れ間を見て150Kmくらいの距離を走りました。 まだ様子見の段階ですから遠くには行けません。
いつもの足慣らしのコースを辿るくらいですが。
ソレックスとDOHCエンジンとの相性は良く、3000回転ほどになると快音を響かせるのは気持ちのいいものです。
もっとも、1速と2速の頭打ちが早く、4速では物足りない感じです。 GT5であればどんな感じなのでしょうか。
RT55は生産台数が2222台ということですが、GT4とGT5との比率はどれほどだったのでしょう。
ちなみにRT55の5速ミッションは、かのトヨタ2000GTと共通ということで、考えようでは大したもんです。
さて、そのGT4の4速ミッションですが、日産の旧車とは違ってストロークが短く、ギアチェンジは想像していたよりもシックリいく感じですし、クラッチのつながりもスムーズです。
そして何よりもヒール&トゥのし易いペダルの位置設定ですから、思わず必要の無いヒール&トゥをしてイチビッています。
近場でのテスト走行が終われば、いよいよ片道100Kmくらいの高速道デビューといきたいところです。
ETCを付けなければなりませんね。
その次は重ステのパワステ改造、助手席側のパワーウインドウ化、おっと、それよりも距離計不動を何とかしなければ。。。
まだまだ、泥沼に片足のつま先を入れたくらい、でしょうね。。。
]]>大昔から手に入れることが出来れば、一度は乗ってみたいと思っていたトヨタ車がRT55でした。
RT55と言っても、一般の人には何のことだかわからんのですが、車好きの人なら、「ああー、コロGか。」となります。
マニアの間では「コロG」と言ってはいけないそうですが、RT50コロナのハードトップがベースになっていますから仕方ないところですね。
理屈っぽい話は別にして、このRT55は “トヨタ1600GT” という車です。
私がブログネタにするのは、この度RT55を購入したからですが、いくら欲しかったと言えども昭和42年製の、今から56年も前の車ですから一筋縄では行かないぞ、と思いながら。
さて、私がこの車の購入を決めて茨城県まで引き取りに行ったのが4月中旬です。
紆余曲折、姫路に持って来てからは、とりあえず公道を問題なく走れるレベルまで整備する、ということで、いつもお世話になっているボディーショップシミズさんに委ねることになりました。
覚悟はしていたのですが、車は表から見えないところが怖いです。 で、この車も色々と。。。ありましたね。 いやいや、過去形ではなく現在進行形ですが。
それでこの15日に、とりあえず、のところはクリアしたつもりで乗り出すことになりました。
だましだまし、という域を出ない走行がしばらく続きそうですが、DOHC 9Rエンジンとソレックスとの相性がいいのか、快音を響かせて走ります。
明度の高いイエローのボディーカラーと快音で、結構視線を浴びているようです。 「なんじゃ、この旧い車!」 でしょうね。
今後続くであろう苦労話をネタに、このブログをアップしてゆければいいのですが、かつて私が係わってきた4~50台の車の中で最も旧い車ですし、生産台数はたったの2222台、現存数も極端に少ないとくれば、部品調達などはどうなることやら。
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イラストNO.115は準急「くまの」を牽引するC58の登場です。
今では紀勢本線を往く特急列車は「くろしお」の独壇場ですが、かつて、その元祖とも言うべき優等列車が準急「くまの」でした。
準急などと言っても、今どきの人たちからすれば何のことだかわからないでしょうが、そんなの等級の列車があったのですね。
さて、その準急「くまの」ですが、この列車は紀勢本線の新宮~天王寺間に昭和27年から運行された客車列車で、新宮~東和歌山までの区間を主に牽引していたのが和歌山機関区、紀伊田辺機関区C58でした。
主に、と書いたのは、区間、時代によってC57、DF50なども「くまの」を牽引しましたので、すべてシゴハチというわけではありませんでしたから。
さて、紀勢本線というと黒潮。
風光明媚かつ雄大な太平洋の大海原を見渡して優雅に走るイメージがありますが、実際の線路敷設状況は全くと言っていいほど真逆。
250~300mという急曲線、勾配とトンネルの連続で、多客期には7連という客車列車を限界に近い運転時分で走らせるのは大変だったようです。
紀伊田辺区のシゴハチは集煙装置、重油併燃装置の重装備機が多く山線仕様です。
260号機がヘッドマークを掲げ、ライトを灯し、7連の「くまの」を牽引して走って来ました。
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イラストNO.113を飛ばしたままでNO.114をアップしたものですから、113を忘れた?
いやいや、長年、不調だったパソコンがついに4月末にダウンして、文章は書けてもイラストが掲載出来ないという状況になり、ついにパソコンの入れ替えをしました。
どれどれ、ブログがまともにアップ出来るようになったかなと、試したのがNO.114だったわけです。
で、113は、というと、先月4月に描き上げていた兵庫~岡山の県境、船坂峠を往くD52です。
1000トン以上もある本線重量貨物列車を、単機で引っ張り上げる力仕事は、蒸機機関車最強の牽引力を誇るデゴニの本領発揮の場です。
県境の折り重なる山々にドラフトを響かせて、フルパワー、力行のままでトンネルに突入します。
]]>今回のイラストは加悦鉄道で活躍していた1261号機を描いてみました。
この1261号機は、日車製の良くバランスの取れたカッコいいCタンクですが、元々は簸上鉄道(木次線の前身)が発注し、後に国鉄に編入されて1260形式となったようです。
その後、日本冶金でニッケル輸送に使用され、加悦鉄道では昭和42年まで走っていたようです。
何しろ昔のことですし、私も実際に走っている姿を見たことがないものですから、もう1261機の活躍する世界は想像することしかないのですね。
もう数年前のことですが、私が加悦SL広場を訪問した時には、加悦2号機、4号機、103号機、他の小型DLらとともに展示されていました。
LP42のようなヘッドライト、単式コンプレッサー、安全弁、タービン発電機などなど、国鉄編入された時代に改装されたと思しき装備が近代的? ですね。
]]>イラストNO,112はロッド式駆動装置が特徴の小型の凸型機DD11です。
このDD11、鉄道模型の世界では入替えや簡易路線の小貨物などに頃合いの機関車ですが、実物の世界では非力で活躍の場は限定されていたようです。
ここ機関車も、初期型と後期型ではかなり雰囲気が異なりますが、後期型は入替専用に設計されていたとか。
実機が保存されているのかな、と、調べてみましたが、残念ながら1両も残ってはいませんでした。
イラストは初期型の2号機ですが、久里浜で入替に使用されていたそうですね。
]]>D50の従台車2軸化をして軸重軽減をしたのがD60で、両数の少ない割には各地で活躍した機関車です。
とりわけ関西地方では紀伊田辺区に所属しており紀勢線で走っていましたが、西日本では山口線、九州の筑豊本線、久大線などが活躍の場でした。
さて私にとってD60はさほど身近な存在でもなく写真も数少ないですが、紀勢本線の紀伊田辺まで足を延ばすこともなかったようです。
D60は種車がデゴマルですから、大正時代生まれの重厚なイメージがありますが、戦後設計のLT254という鋳鋼製の従台車と、3号機はパイプ煙突への換装によって、やや近代的?な感じもします。
キャブに取り付けられる銘板も、国鉄浜松工場改造銘板などで賑やかなのですが、文字も小さくてイラストで表現することは出来ません。。。
]]>先日、と言っても1月の話ですが、姫路シゴナナ会の会長さんから連絡があって、今年の5月5日こどもの日に久々、シゴナナの一般公開をしたいとのこと。
それに先立って3月21日にメンテと清掃をしたいので、播但の会に手伝って欲しいということです。
そう言えばコロナ、コロナで、永い間シゴナナも放置状態ですねー。
ここは播但の会メンバーに依頼して、人数を集めなければ、と言うことでボランティアをお願いしました。
今のところ6名の応援を得ていますが、3月21日午前中、ご都合付く方はご協力くださいますよう。
写真は2018年のこどもの日 一般公開です
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